2014年2月17日月曜日

日本の倫理に対する禁忌感

アメリカ&ドイツの皆様こんばんわ。
日本語ですが勘弁してください。
私はおそらく英語やドイツ語が正しく書けないと思います。
それでも良かったら、また見に来てくださいね。

最近アメリカやドイツの方からの訪問が日本より圧倒的に多いので、書いてみました。

実際問題英語とドイツ語だけであれば、書けない&読めない事も無いのですが、非常に時間がかかります。
面倒くさくて仕方ないから、やらないと言うほうが正しいかもしれません。
日本語と他国語の間にある“意味の壁”っていうのは、想像以上に大きいです。

日本語は1文字1文字その物が大きな意味を表し、文面で更に深い意味を描き、そして書いていないことまでを想像して解釈しなければならない言語ですので非常に楽です。
ツイッターでも十分言いたい事が伝わります
また、達人になると、5・7・5の俳句ですら、情景、音、思いを先鋭に描ききる事が可能です。
ですが、他国語は違います。

英語は本当に音声だけですし、単語が複数重なって初めて意味を成します。
ドイツ語に至っては女性名詞だの男性名詞だの、日本人の感覚とはとてもかけ離れているので、理解不能です。ただ、カタカナ読みができるのは非常にありがたいですが…。

まぁ、こんなに壁があったら、日本人からすれば使い勝手の超絶に悪い英語なんて勉強しようとも思わないですよね。
同様に外国人からしてみれば、日本語ほど難しい言語なんて無い訳です。覚えたくとも覚えられません。
ただ、アニメ・漫画はこの言葉一つが意味を持つ事によって生まれている場面が多いので、外国語版を読むと違和感を感じる事が多いです。


さて、私が外国語が苦手だと言う言い訳はこの位でさておき、本日は倫理に対する禁忌感の話。
本日、“ETの会”なる、巷で言う所の中部地区の“倫理研究会”で勉強させていただきました。
このETの会には約2年前からお世話にならさして頂いてます。
最初はもっと学術的な内容で、混沌としているのか?と思いきや、実に現場染みた話を倫理的な解釈としてどう在るべきか?と言う話が多く、まともな技術者としては必見な内容です。

ただ、あまりに難しいとか、難解だと感じる方が多いようで、途中で飽きる方も多い模様。
それに倫理だけでは生産性は生みませんからね。
あくまでも、技術を使うに当たっての下地の素養として必須事項なだけです。
そこに気付けるには、それまた相当高い技術力や一種の哲学・価値観が必要なのですが、普通の人にとって、それは結構酷なのかも知れません。

私からすれば、某企業を見れば解るように倫理観・思想と言う自己の根底が無いままに技術を使われるほうがよっぽど怖いのです。
しかしながら、日本では余程の事が無い限り一定レベルの倫理観は植えつけられざるを得ない状態にある、もしくは、そうでないものは社会的に排除されやすい社会構造なので、被害はまだ少ないのかもしれません。

日本人が宗教や哲学、倫理観を嫌う傾向はかなり前からありますが、何故そうなったのか?私なりに応えてみようと思います。

そもそも日本は多神教の国です。
また、多神教の根底にあるのは自然崇拝(自然=神)です。
日本は国家の主権をほぼ2000年近く、天皇家が握っていました。
理由は、その天皇家が代々引き継がれてきた優れた生粋の祈祷師の家系だからです。
初代天皇が即位して、2000年もありますから、その祈祷師=できた人であれば、その教えが自然と全国民に伝わるには十分過ぎる年月があるわけです。
すなわち、日本において、自然とともに生き、先祖を敬い、食を尊び、平和であることを願うのは遺伝的に体に染み付いているともいえます。
諸外国は日本へ何をしても怒らなかったのに、一定以上の限度を超えたとき(先祖への冒涜)&食の問題だけは触発でしたよね
少なくとも今の自分があるのは誰かわからないような2000年近く前に暮らしていた先祖が、この地を選び、天皇=優れた祈祷師を敬ったからこそ、今の自分がココに存在できる訳です。

それを周囲からとやかく言われて否定される様な事は、先祖への冒涜に近い訳です。
戦後、天皇家が廃止されなかった理由が少しは見えてくるかもしれません。
廃止された途端、国民が一気に暴徒化して、それこそ当時開発が完了し掛かっていた原爆を持ち出していたかもしれませんね…。
自分たちが死ぬことよりも、先祖を冒涜されたほうが、よっぽど身に応える。それは今も昔も変わりません。
尤も、日本に住んでいたとしても、日本人で無ければ全く別の話ですが…。
最近は不法入国者&その末代がかなり多いですからねぇ~。あまりに横暴過ぎるので、そろそろ強制送還されそうな勢いですが…


さて、普通のまともな日本人からすれば、哲学、宗教観、倫理観、と言うものは、生まれつき当たり前のように持つべきものであり、自分自ら死の間際に昇華させる成果物であって、とやかく言うような代物ではないことを暗に悟っているとも言えます。

日本語と言う言語体系にもそれは如実に現れています
さらには、日本自身が非常に自然災害が多いのに発展した地域という点でも、生きていることは既に死を迎える覚悟を決めているとも言えるような環境です。その死を迎えるに当たって、いい生き様を周囲に魅せると言うのは、一つの美学にもなっています。
切腹、武士道、戦う前にお互いが名乗り合う等…非常に多いですよね。

こういった諸外国では普通、長年の研究や、勉学、悟りをしてなお辿り着き難い境地を、日本人は生まれながらにして得やすい環境で育っています。
そしてその結果、自分の生まれた背景にある2000年近い歴史を冒涜されるような行為(哲学・倫理学・宗教の押し付け)を嫌う傾向があるのかも知れません。

ただ、最近は某密入国者の工作の賜物もあってか、それが薄れつつあります
その補完をする為に仕方無しに教育をせねば成らなくなり始めたのですが、DNAレベルで染み付いた嫌悪感と言うのが、どうも邪魔するように見えています。

ザビエルを始め、過去そういう怪しい人に騙されて痛い目を見たから染み付いているのです。
しかしながら案外と世間や周りは個人の能力低下に対して鈍感ではありません。
倫理観や哲学の無い技術と言うのは、得てして大した成果を生みません。また、生んだとしても、継続的な生産性は見込めません。それは過去と諸外国が実証しています。

そろそろ自分に足りないものが何か?理性で判断するようになっても良いのではないかな?と私は危惧しています。

先日も少し述べましたが、不景気を引き起こした引き金を引いたのは企業側ですが、その不景気を意図的に続けているのは、紛れも無く国民全員なんですよ?

ではでは、今日はココまで。
またの機会に会える事を楽しみにしています。

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