2014年7月5日土曜日

最近の若い人の傾向と対策

お久しぶりです。
先日愛知県技術士会のワイガヤフォーラムでお話した内容を添付します。
日本では今こんな若者が生まれましたという話と、その背景にある社会的な状況を纏めてみました。

第1章 はじめに

未だに若造だと思う私が就職し、業務に就いて17年になります。
その17年の間において、新卒生の様態は目まぐるしく変わりました。
その大きな変遷に追いついて行けない企業(特に中小問わず大企業病という俗称に侵されている企業)において、3年後の離職率が3割を超えています。
その背景と対策について、17年の経験からお話しようと思います。

第1節   所謂ユトリ教育世代の誕生

後述する世間の酷い状況下にあった親たちの状況を見てきて育った彼らは、かなり特徴の有る変化をしてきています。最近の多数派の傾向として、
l         すぐに謝る・諦め、反省も学習も向上心もが全く見えない(表面上謝る・繕うだけ)
l         兄弟が少ない、若しくはいない(親の資産の限界)ため、家庭内で揉まれて育っていない
l         教育が不十分(家の教育:躾も、学校:集団生活、学業も酷い内容)
l         物資・お金に困らない(世間・親がくれる)
l         税金・年金などの国民としての公的な必要経費(義務)を払わない(払う必要性を知らない)
l         命に対する意識の軽薄さ(ゲーム・漫画による影響と思われる)
l         表面上の繋がりで軽薄な連携関係を好む(互いに痛い思いをしたくない・SNSなどの緩いつながり)
l         繋がりたがる(自分とって都合のいい親友・友達と呼べる人が欲しい)
l         一方では、繋がりたくない(近所づきあいが嫌い・知らない人とは近づきたくもない)
l         共産主義的平等ありきの思想、義務に対して希薄性(本来は義務ありきの権利と平等)
l         深く思慮しない行動性(その場がよければそれでよい)
l         積極性を見せない(自分が傷つくのを極端に恐れる)
l         惨めという感情が希薄(働きたくないという理由で某学会に入り、生活保護の申請受諾を取り付ける)
等があります。様々な点で、今までは少数派であった日本人を多数派の状況に持ち込みました。
あまり良好とはいえない社会人が流れ込んで来た結果、現状でも教育不足であった現場環境は更に悪化し、所謂土方的な教育が通用しない状況・会社においてはどうしようもない負の財産として扱われ始めています。正直な話をすると、会社の中では数年経っても負の生産性を発揮する人間のほうが多数派です。
また、近年女性の社会進出がようやく躍進し、まともになりつつように見えています。しかしその実態は、男性が仕事に対して非常に消極的であるからでもあり、男性に依存して生活を成り立たせること自体を諦めた女性が増えて来たこともあります。また、幼少期の女子社会の厳しさもあります。その結果、
男性よりも女性のほうが仕事・世間に対して積極的であるため、まともに使える
という現象が強く現れつつあります。そのため、急激に女性の役職への登用が多くなり、交渉事に関しては女性相手の場面が多くなりつつあります。少子化問題、交渉術の変遷など、様々な意味で気をつけなければならなくはじめました。逆説的な言い方をすれば、多少問題視すべき点はありましたが、
過去の日本社会において、仕事に対する姿勢は女性よりも男性のほうが圧倒的に優れていたため、女性の社会進出が妨げられていたように見えてしまっていた
という事実もあります。
元来、役割分担という考えから或る程度身を保障された(死に側面し難い)分野=家を守るのが母親、外で死ぬ覚悟で生活資金を稼ぐのが父親であるのは、子孫を残すという考えからすれば至極当然なわけです。



第2章 最近世に出始めた新社会人の歴史的背景

彼らを語る上で避けられないものは、上司の環境と社会的環境です。
彼らが世に現れた背景を抑えながら、彼らが何を求めているのか、どのように扱うべきかを考える必要があります。

第1節   バブル期前後の人材という背景

バブル崩壊後、日本は自ら生み出した架空の財産とその負債の影響で、大事な場所でも資金を支出する勇気をなくしました。
その結果バブル崩壊後の経済の落差はすさまじく、本来続けるべき優秀な人員の採用と継続的な教育を見送る会社が多々増えてきました。この結果、
l         とりあえず仕事に就けたらそれで良い
l         首を切られないように上から言われたことをそのまま実行すればよい=上司への過剰な責任転嫁
l         何かあれば早急に謝ってしまい、早く流してもらえば良い
l         表面上の業務だけこなせれば何問題ない
そういった風潮が強くなり、完全に汚染されてしまった彼らは考えることを辞め、上司・役員の顔色だけで自分の意見を決める事に徹しました。そのため、指導者的な素養を持っていない役員や経営者が多い昨今において、現在の不景気・会社の害悪を増進させる作用を持ちます。よく言われる
l         不景気なときは指導者主体の経営をすべき(社員が萎縮気味)
l         好景気な時は現場の意見を尊重した経営をすべき(社員が社会に対して攻めの姿勢)
という話は、ココからも裏が取れるように感じます。
また、彼らの上司であるバブル期~少し前の入社組みは、もともと仕事をしなくてもお金や利益が貰えていた世代です。バブル期の入社試験は勧誘・接待の場と化し、職に就く難しさを知らず、仕事の仕方を知らないまま不景気に突入しました。彼らの中で考えることを辞めた多数派の人間は、仕事とは一体何なのか?既に分からないまま生活の維持のためだけに会社に居座るようになりました。数字だけ弄って誤魔化し、自分の身に降りかかりさえしなければ全て丸く収まりますし、誰か1人を悪者に仕立て上げ、逃げ切るという田舎者の村社会的処世術は彼らが世に広め、日本の負の文化として築き上げました。
言われるも無く仕事は自社の技術をもってして社会の経済を善く回すことですが、その技術は何か?がこの世代以降、急激に失われました。この世代で構築された業務方法は
技術を外部に発注し、組み合わせるだけで製品を作り上げる手法
です。
彼らの技術と時間が無いために実施されたこの手法。一見遠目には問題ないようにも思えますが、内部で留保すべき開発する技術ごと外部に委託してしまったため、致命的問題をはらんでしまいました。
そのため後々に表面化する品質問題、開発に対しての評価軽視による中小企業への過剰な圧迫、それらによって発生する給与の削減によって、日本は長期的な不景気への突入につながります。

第2節   最近世に出始めた新社会人を構築した社会的背景

バブル期以降、日本の経営は大きく変遷しました。
大きく挙げられる内容として、
l         安易な資金投入をしなくなりました
l         お金と時間のかかる社員の育成をしなくなりました
l         給与を可能な限り引き下げるように舵を切りました
l         政府に働きかけ、都合のいい制度=非正規社員の拡大をして、存分に活用しました
l         某国に見習い、積極的に詐欺行為や株の短期投資等をして稼ぐようになりました
これらの結果、内需8割、個人消費6割の日本社会は、全体が見る見るうちに不景気になりました。自らが高い志と、高評価の結果を生成する事によって維持できている社会構造、それが日本という国です。しかし、昨今はそれを希薄にしようとする傾向へ変わりつつあります。そのため、自らが生きてゆくための社会的評価・資金に乏しくなった会社は、これらの悪循環を更に加速させました。
この悪循環を辞めさせようとしたのが第一次安倍内閣以降の自民党です。しかし、小泉政権で国民を煽る業によって間接的に国を動かし、非正規社員の拡大を実現する事ができ、またその勢いを維持し続けたマスコミの反発的な影響力が根強く、大きな成果を出せずに至りました。また、マスコミに踊らされた国民は詐欺師の代表格が中心という政治集団に対して政権を明け渡し、悲惨な被害にあう羽目となりました。
時が経過し、ようやく少しは気が付き始めた国民も現れ、詐欺師の政権が交代ました。小泉政権以降の自民党はようやく本来やりたかった景気対策と、遅れに遅れをとった社会保障の赤字補填に奔走しました。
しかし、壇上に上がった官僚や会社はバブル期にのし上がった仕事をしないで仕事をした振りができる官僚や、腐って落ちぶれつつある会社でした。そのため、いくら政府として発信しても、やるべきことも満足できずに今もどかしい状況が漂う結果となりました。事実、政権交代前に確定された消費税増税に対し、政府が事前に会社・団体へ行った景気対策の給与交渉(法人税減税等の措置を盾にとった)に関しても、最低限度であった2年間で実質的な手取り賃金の3%以上の上昇を確保できた会社は殆ど有りません。

第3節   ユトリ教育世代の育成された周辺社会環境

そもそも、このユトリ教育方針はすぐに失敗だと分かり舵取りと修正を行いました。しかし、義務教育者側が考えて評価しなくても良いという側面もあり、元来教育側が要望した教育方針であっため、教育の現場にこの廃止が浸透し始めたのはつい最近のことです。
     当時の義務教育者の大半は、反日活動家の成れの果てです。教育者になりたかったのではなく、教育者にしかなれなかった人間のほうが未だに多数派であるため、酷い状況は今でも続いています。元来教育者とは相当な人格者で無ければならないのですが、当時は義務教育者・文屋・マスコミ関連等は容易に仕事に就き易いという理由で大変好まれました。公的な支配手段を持つ教育者・文屋・マスコミ関連は善い人間で形成されるべきなのですが、非常に残念でなりません。
そのため、かなり湾曲した教育をされ、正当な評価を得られずに育って来たユトリ世代の彼らは、優秀な私学に進むか、自らが高い志を持ち続けるなどをしなければなりませんでした。
義務教育の時期は、人格形成の重要な時期ですから、この問題を親が認識し、正しく指導をしていない家庭に至っては、どうしようもない人間が育て上げられます。
彼らを育てる親世代は十分な労働に対して賃金の削減が図られ、物価も一見下がっているように見えて実質的には上がっている世代ですから、必要以上の労働を支払わなければ今までと同じ生活ができず、子供の状況の確認を監視するということを怠る事が非常に多くなりました。
     物自身の値段は下がりましたが、品質面、内容量が減る形での物価上昇が延々と続いていたため、実質的な物価上昇に該当する。
そのため、子供に対して一見無関心のように見える親が多くなり、子の教育に多大な爪痕を残しています。

第3章 ユトリ教育世代とどの様に立ち向かうか

ユトリ教育世代と一言で片付けていますが、実際の人間は多種多様です。その事実を踏まえながらどの様に育て上げるべきなのか?を模索する必要があります。

第1節   現実には当たりの人材も存在するという事実を認識し、積極的に採用・登用する

実際のユトリ教育世代において、私学(小・中)卒業生が大変増えています。これは親の教育現場に対する不信感の表れで、大変重要な事実です。私学ではまともな教育者も居ますから、それに影響を受けた世代であれば、まともな人間性を持っている可能性が高くなります。また、兄弟が多ければそれだけでも人間性の形成に大きな期待が持てます。本来は面接では聞きにくいことですが、十分な説明をした後に参考として聞きたい旨を伝え、確認するほうが良い判断材料を得られるかも知れません。
もし、人間性として十分な価値のある可能性を秘めていれば、それは大きな価値です。後述しますが、以前同様の日本人として扱う事ができるため、多くの基礎教育期間が削減され、戦力としての成果を挙げさせながら教育を行う事ができます。そうする事により、本人の伸び代は十分に大きくなります。
昨今新卒でのハズレ率が非常に上がってきていますが、当りが無いという訳ではありません。当たればユトリ教育以前と同じぐらいの当たりです。現実的にあたりの彼らはおおよそが一定以上の努力をする人間側ですから、非常に優秀な人材と位置づけることも可能であると考えられます。
残念な事に、人は自らの意思でしか変わる事ができません。つまり、教育される側の意識が変わらなければ、教育することはほぼ不可能です。そのため、多くの場合は本人への説得から始めなくてはなりません。結果、ユトリ教育に洗脳されてしまった人間を戻すのは並大抵の期間では終わりません。多くの場合、数年を要することから、大きな手間が省けることを重視すべきだと思います。
ユトリ教育に洗脳されていない=旧来の日本人であるということは、入社後の教育方法論は多くの会社・書籍等でも実例・実績がありますし、日本人独特の空気を読む力という武器によって、多彩な可能性を生み出します。そのため、多少学が無くとも後で身に付けられる範囲においては優遇すべきだと思います。

第2節   物・精神の不足感を彼らの中から呼び起こす

現実問題として、彼らは我侭さえ通さなければ、何の不自由なく暮らせる社会組織に洗脳され続け、残念な事に親もそれを後押ししてしまいました。バブル世代以降、電子化・ソフトウェア化された見えない技術と物が彼らの創造する力を大きく低下させ、親から貰った金で買ったほうが安く満足できる現実を十二分に味わったため、自分を高める欲求が表面化しなくなりました。
 この事実は、意欲を無くした方が楽に暮らせるというものです。消極的である事が美徳という、不可解な文化を形成する事になりました。その結果、創造者としても、科学者としても、また経営する側の人間としても、作業者としてまでも単純には使い物にならないよく分からない人間を生み出す結果になりました。
人として高望みをする欲求を感じない生活に慣れた彼らは、単純な物を創る事に感動を覚えません。かといって、ゲーム以上の複雑な世界では何かの創造をする事ができる訳でもありません。肉体的に成長していれば幾らかの稼ぎのできる職はありますが、それはバブル以降危険な割にお金を稼げなくなった建築組織ですから、就こうともしません。結果、働かない・働けない人間が一気に増え始める結果となりました。親が生きているうちは親が甘やかして生活できるように仕向けますが、もう少し経ち、親が亡くなった以降は悲惨な状況が明確化されるでしょう。働かない=国民の義務すら捨て、プライドを捨てて生きることを選んでいますから、生活保護の受給には非常に前向きな行動を起こします。現実的に特定の海外発祥の宗教団体や、在日外国人団体、部落関連団体に属さない限り生活保護は受給できませんから、安易にそれに乗る人間も少なくありません。
 そこで、この環境を逆手に取る事がひとつの成長の手段として浮かび上がります。彼らは充足してはいるものの、何か物足りない感じを常日頃から受けている状況ですから、そこをうまく突き、前向きな人間に方向を転換させる事が重要な要点になります。

第3節   楽しいことは何なのか?将来像とは何か?本人の価値観から始める

先ほど述べたように、昨今の彼らは感情の起伏をとても低く抑え、無関心であることを良しとする傾向が強くあらわれています。しかし、人間は感情で動く生き物です。理屈だった上での行動はあまり好んでしません。遺伝子レベルで埋め込まれたこの衝動は、昨今もこの状況は変わらないようです。そのため、相手が楽しい・感動を覚えることを積極的に用いて彼らを誘導すると、とても有効的に学習してくれます。
しかしながら、負の感情はおおよそ同じ傾向であるものの、正の感情・感動・楽しみに関しては、人間である以上、個人への依存が非常に高く多岐にわたります。
昨今の彼らは感情を表に出すことや、密接に繋がろうとする事を極端に嫌います。そのため、まずは教育者側自らが細かい行動まで目を届かせて、相手の反応をしっかりと見極め、誘導先を判断する能力を身につけることが重要になります。
もし困難であれば、素直にある程度優秀だと思われる若手の人間を近づけて、彼らの望むゆるい結束の育成を先に行うのが良いと思われます。若手の人間とうまく連携し、興味のありそうなところや本人のちょっとした感情の変動を察知するように勤めます。また、緩い連携を地道に活用して、徐々に将来像を見据えた形での自分の道のある方が必要であることを認識させ、徐々に本来の人としての道のあり方を思慮できる能力を少しでも身につけさせることが重要です。
少し考える癖が付けば、先の考え無い状況を可として今の状況に満足すべきだとは考え難くなります。少しずつ日本人としての正常な思考の持ち主へと誘導することが大切です。一度前向きな思考になれば、正規の欝にならない限りは、ある程度継続的に前向きな思考を継続してくれます。
ココで注意しなければならないのが、例え遠回りであっても仕事を教え込むことを優先しないことです。多くの場合、彼らは仕事をする意味をあまり深く考えては居ません。昨今では金銭的な問題で仕事についている人間は少数派です。生活には困らない世代が多くの子供を育てています。そのため、仕事が嫌になればすぐに辞める、もしくは落ち込んだ振りをして有給が無くても会社を休むという選択肢を選びます。

第4節   基本は日本語を話す事ができる外国人として扱う

いわゆるユトリ世代の多くは日本語もあまりこなせない上に、その日本語の裏にある前提とすべき文化条件や背景を知りません。なぜならば、多くはその教育を受けていないためです。そのため、かなり特殊な扱いをする必要があります。単純に割り切るのであれば、日本語が読み書きでき、ある程度の会話が可能な程度の外国人と同等に扱うのが良いと思われます。
過去、全体像を伝えれば少しの業務説明を行ったところで自ら働き始めた人間は、日本人であるが故にその背景を汲み取ることが前提にあると言う文化の土壌があってはじめて成立しています。そのため、文化の前提や土壌が無い彼らは、素直に異文化の人間として扱い、最低でも110までの全ての業務を説明しなければ動いてくれないものであると想定しておくのが適切です。
暫くの間、コツコツと実務で要求される文化的構造を正しく伝え、空気を読むことの大切さや、空気を読むことによって日本が技術立国に至ることができたという現実を教育することが必要です。また、彼らは自らの変化を恐れ、勉強することを極端に嫌います。しかし、現状のままに留まることを選択すれば、土人文化に至るまで後退しなくてはならないことを正しく伝えることが必要です。幸福の絶対量は地球規模で一定ですから、勝ち取る為の継続的な努力をすることが大切です。よく言われる平等と言うのは、努力をする平等であり、平等に得る権利ではないことを諭してあげる必要があります。

第5節   幾らかのパターンに分けて教育の対応をする

教育の方法は本来11で適切な対応をする事にありますが、100%個人対応を実施することは時間の都合から非常に困難です。そのため、過去にあった典型的な例をいくつか情報として貯め、比較的初期段階において、新入社員の行動に近いものを当てはめ、適応する教育を進めると早期な教育プログラムの立ち上げが可能になります。しかし、この技術は対人の観察能力が非常に高くなければ適応が非常に困難です。また、失敗すればあわない教育=大きな士気の低下と時間の損失になります。専門の長けた人を社内で育て上げるか、自らが能力を磨き上げ、できるだけ多くの人と接触を行い、人の変わる方法論を構築する事が重要です。よく説得方法・行動の本として代表的なものに『人を動かす』『道は開ける』Dale Carnegie 著書などがありますが、これはあくまでも海外での入門書であり、日本の多宗教許容文化においての現実世界は、こんなに単純なものではありません。この本はあくまでも基礎と捕らえ、そこから日本独自に構築された多分野の重い現実を取り込み、ひとつの方法論として構築する事が重要です。
また、後世に残してもおそらく10年程度しか新鮮ではないことを認識しておくべきです。日本は多種多様の文化を吸収しながら常に変化を続けています。過去の成功例が殆ど役に立たないという国はこういった文化背景があるためです。常に変化に適応をしながら前向きに取り組む姿勢が重要です。

第6節    教育をするときに陥りがちな留意すべき点

 教育に際して、いくつか陥りがちな問題点・失敗点とその対処法を述べます。
1.相手の知っている言葉で話す
相手の知っている分野での事例を題材採り上げて話す事がとても重要です。年齢・分野が異なっても相手は合わせて理解しようとはしてくれません。相手の意識に対して、容易に通じ易い相手の知っていそうな話で置き換え、具体例を示す事が需要です。
2.全体を見せるべきか、単純作業で割り切らせるかは成長過程次第
人によって、単純作業まで細分化しないと業務をこなせない人間が多いのですが、それを嫌う傾向の人(所謂優秀な人間側)の人間も居ます。全体像を把握させ、その中での自分の立ち位置を教えるという結構な手間になりますが、教えた直後からの作業効率は単純作業者とは雲泥の差です。元々が単純者業者であっても。時間が経てば全体像を知った上で業務をした方が上手く動ける人も居ますので、時々業務の指示方法を変える事が必要です。
3.単純な成功体験の積み重ねを行わせる
擬似的な成功体験・成果の達成をさせ続け、勝ち癖を作る必要があります。負けを知ることは大事ですが、それ以上に真面目にやれば失敗しない世界であることを先に認識させる必要があります。失敗すればどこにミスがあったのかを探す人間になりますから、とても重要なことです。
4.離れられる状態にあっても、暫く基本はペアで作業を行う
優秀な人間ほどいくら実力がついても、ところどころミスをする不安がわかっている為、教育者離れを拒否する傾向にあります。面倒くさくても暫くは目の届く範囲で一緒に業務をする必要があります。急に要らない子だと自虐的な人間に成りだした例もあるので、要注意です。
5.焦って成果を求めない。本人の気持ちが変わるまで待ち続ける
余程優秀な人間で無い限りは成果を求めても大した成果が現れません。一般的におおよそ3年といわれていますが、比較的優秀な場合の話ですから、5年は見ておくべきだと思います。
本人が変わろうとして、初めて少しずつ変化が現れます。本人が納得しない限り変化は現れませんから、待ち続ける事が大切です。
6.人は簡単には変わらない
人間である以上、本人に変わる意思が生まれない限りは変わりません。我々が行うのは変わる機会を与え続け、成長する機会を与え続けることです。本人に兆しが見えず、これ以上厳しいと感じたら素直に手を引くのもやり方のひとつです。危機感を覚えて始めて前に進む人間も居ますし、期待できない人間に時間を掛けるよりは、期待できる人間に手を貸すほうが良いこともあります。良い言い方ではありませんがお払い箱という考えも会社・社会の存続として必要です。
7.本人の趣向性と異なると感じても、ゆっくり方針転換をする
相手の趣向性と異なると感じてもすぐに手を変えず、ゆっくりと方向転換する必要があります。後輩にとっての都合のいい相手ではありませんから、すぐに手を変えるというのは相手にも多少の疑念を生じさせます。どっしりと構えながら徐々に方向転換を行い、教育手法を変えましょう。
また、業身上にて急な変化があったとしても、盾となって急な変化を与えない必要があります。急な変化は相手にとって不安感を与えるだけで、何の解決も及ぼしません。


第4章 最終的には会社で守る親代わりになる覚悟

社会人17年間という比較的短い間ですが、自分がそれまで生きて来た18年と比べると後輩の変化は急激な変化がありました。その中でも尤も大きい障害だと感じているのは幼少期における人との繋がりの希薄性です。おそらく、この希薄性から対人適応能力や、社会に対する適応能力が酷く劣化しているものだと思われます。ユトリ教育と聞いて先ず思い出すのは幼稚園の演技会でのみんなが主役という不可解な報道でした。当時周囲は絶賛していましたが、主役を立たせるための名脇役が必要なのが社会の常ですし、主役を立たせるために一致団結するほうが望ましい構成だとテレビに対して愚痴っていたことを思い出します。そのテレビで皆が主役をやっていた世代が今のユトリ教育なのですが、彼らは本当に無知で純粋です。体は成人しているにもかかわらず、物の良し悪しも分からず、単純作業の道具としても扱えないような代物です。女性が強くなったのは、彼女独自の村社会文化の洗礼を受けているためだともとれます。
元来、こういう状況になった背景には親が育てる気が無いという問題もあります。そのため、社会に出てきた彼らに対し、我々が親の代わりをする必要があります。その覚悟がないと教育者は勤まりませんし、昔のように一方的に教育内容を押し付けて出席点だけで単位を上げる大学となんら変わらない状態になります。彼ら教育側の評価はどうでしょうか?悲惨なものですよね、見習ってはいけません。
2の育ての親としての覚悟と責任、これは非常に重たいものですが、誰も肩代わりしてくれるものではありませんし、過去のバブル期の罪が一気に押し寄せて来たもので避けようがありません。地道に一歩ずつ対処する事が必要です。本来は親たちに責任を取らすべきですが、彼らは責任のとり方を知りません。


…と以上の内容を配布し、実例交えてお話しました。
気が向いたらこういった会にも参加してみてください。
ではでは、今日はココまで。
またの機会に会える事を楽しみにしています。



2 件のコメント:

  1. おもろいっす

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    1. 感想を頂き、ありがとうございました。
      駄文ばかりの雑記帖ですが、これからもご愛好いただきたく思います。

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